
摂関政治とは?藤原氏の栄華と日本の政治体制の変化
1. 摂関政治とは?
摂関政治(せっかんせいじ)とは、藤原氏が天皇の補佐役として「摂政(せっしょう)」や「関白(かんぱく)」の地位につき、実質的に政治を支配した時代のことです。摂関政治では、天皇が幼いときに「摂政」、成人した後でも「関白」として天皇を補佐しながら、政治の実権を握ります。藤原氏は、自分の娘を天皇に嫁がせるなどして、権力を強化しました。
2. 摂関政治が確立するまでの流れ
① 藤原良房(ふじわらのよしふさ)
- 858年:清和天皇が即位し、藤原良房が日本初の摂政となります(864年)。
- 866年:「応天門の変(おうてんもんのへん)」を起こし、ライバルであった伴善男(とものよしお)を失脚させ、藤原氏の支配が始まります。
② 藤原基経(ふじわらのもとつね)
- 884年:光孝天皇が即位し、藤原基経が初の関白に就任。この時期に摂関政治の基盤がさらに強化されました。
③ 藤原道長(ふじわらのみちなが)と藤原頼通(ふじわらのよりみち)の時代
- 藤原道長(966-1028)
- 4人の娘を天皇に嫁がせ、摂関政治を最盛期に導きます。道長はその権力を持ち、「この世をば我が世とぞ思ふ」という名言が有名です。
- 藤原頼通(992-1074)
- 約50年間にわたり関白を務め、摂関政治の絶頂期を築きます。彼は平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てるなど、文化面でも大きな影響を与えました。
この時期、藤原氏は日本の政治を完全に掌握していました。
3. 摂関政治の特徴とその仕組み
- 天皇の外戚(お母さんの実家)として権力を握る
藤原氏は天皇の母親の家系から外戚となり、その地位を活かして政治を支配しました。 - 摂政・関白として実際の政治を支配
摂政は幼少の天皇を、関白は成人した天皇を補佐しながら、実質的に政治の決定権を持つことができました。 - 「政所(まんどころ)」で政治を管理
藤原氏は自らの家政機関を強化し、実際に日本の政治を管理していました。
4. 摂関政治の衰退
- 1068年:後三条天皇が即位し、自らの手で政治を行う「親政」を開始。これにより、摂関政治の影響力が弱まります。
- 1086年:白河天皇が上皇となり、院政(いんせい)を始め、摂関政治の時代が終わりを迎えました。
まとめ
- 摂関政治は、藤原氏が天皇の外戚として摂政や関白となり、実質的に日本の政治を支配した時代です。
- 藤原良房が初の摂政、藤原基経が初の関白となり、摂関政治の基盤を作りました。
- 藤原道長・頼通の時代に摂関政治は最盛期を迎えましたが、後三条天皇の親政と白河天皇の院政により、衰退しました。
摂関政治は、藤原氏の権力とその影響力を象徴する重要な時代であり、日本の政治の進化に大きな影響を与えました。