
なぜ?鎌倉幕府 滅亡の真相と武士の時代の終わり
鎌倉幕府はいつ滅亡したのか?
鎌倉幕府は1192年に源頼朝によって設立されましたが、1333年に滅亡しました。約140年にわたって続いた武家政権が終焉を迎えた背景には、さまざまな要因があります。
鎌倉幕府滅亡の主な原因
元寇による御家人の不満
1274年と1281年に起こった元寇(げんこう)は、幕府にとって大きな試練でした。全国の御家人を動員して防衛に成功したものの、恩賞がほとんど与えられなかったため、御家人たちの間に強い不満が生まれました。
北条氏の専制と政治の混乱
鎌倉幕府の実権は北条氏が握っていましたが、彼らによる専制政治は御家人からの支持を失っていきます。経済的困窮も重なり、幕府への信頼は大きく揺らいでいきました。
後醍醐天皇による倒幕運動
天皇中心の政治を目指した後醍醐天皇は、1331年に「元弘の乱」で幕府に反抗しますが失敗し、隠岐に流されます。しかし1333年に再び倒幕のため立ち上がり、全国の武士たちと連携して行動を開始します。
鎌倉幕府を滅ぼしたのは誰?
倒幕の立役者は、足利尊氏と新田義貞の二人です。
- 足利尊氏:京都の六波羅探題を攻撃・壊滅。
- 新田義貞:鎌倉に攻め込み、1333年に幕府を陥落させた。
この戦いにより、北条高時ら北条一族は自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉幕府滅亡後の日本
後醍醐天皇は「建武の新政」を開始しましたが、武士たちとの対立により失敗。その後、足利尊氏が室町幕府を樹立し、再び武士政権の時代が続いていくことになります。
まとめ:鎌倉幕府の滅亡の原因と意味
鎌倉幕府の滅亡の主な原因は以下の3つです:
- 元寇による御家人の不満と財政悪化
- 北条氏の専制と幕府の腐敗
- 後醍醐天皇と有力武士による倒幕運動
この出来事は、武士の時代が続いていく中で、新たな政権交代のはじまりとなりました。